2013年07月08日

被爆者の山口仙二氏が死去

まずはじめに、謹んで哀悼の意をささげます。
激動の人生だったと、文面の経歴から察しますが、
この人の人生をかけた願いや祈りがかなう日が
いつ来るのかと、考えさせられます。

原発の放射能問題でゆれている現在ですが、
この原爆だって、近しい話ですよね。本当に原子力は
いまだ人間の手に負えるものではないので、
原爆も原発もなくしていってほしいものです。


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7月7日 長崎新聞
被爆者の山口仙二氏が死去

 長崎原爆で被爆し、日本の被爆者援護運動、反核・平和運動をけん引した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)顧問で元代表委員、山口仙二氏が6日午前9時36分、心不全のため雲仙市小浜町南本町の公立新小浜病院で死去した。82歳。五島市玉之浦町出身。自宅は雲仙市小浜町北本町1056の3、ケアハウス桜花苑。通夜は7日午後7時から、葬儀は8日午後1時から、いずれも雲仙市小浜町北本町905の58、来迎舎小浜斎場で営まれる。遺族は家族葬で執り行いたいとしている。喪主は妻幸子(さちこ)さん。

 1945年、旧県立長崎工業学校(現県立長崎工業高)1年生だった14歳のとき、学徒動員先の三菱長崎兵器製作所大橋工場の敷地内(爆心地から1・1キロ)で、防空壕(ごう)を掘る作業中に被爆。顔や上半身が焼けただれた。貧困の中、やけどの引きつり、ケロイド、被爆の後遺症に苦しみ、植皮手術などのため入院や自宅療養を繰り返した。

 米国が太平洋ビキニ環礁で実施した水爆実験による第五福竜丸事件をきっかけに反核の世論が高まり、第1回原水爆禁止世界大会が広島で開催された55年、長崎原爆青年会(後に長崎原爆青年乙女の会)を設立。56年、被爆者への国家補償実現などを目指して発足した長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の結成呼び掛け人の一人となった。

 被爆体験と反核を訴える活動は海外に広がり、82年、米ニューヨークであった第2回国連軍縮特別総会で被爆者として演説。自身のケロイドの写真を掲げ、「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ」と訴える姿が、世界に発信された。

 長崎市の平和宣言文起草委員を務めたほか、長崎被災協会長などを歴任。被爆者援護法の実現や原爆症認定集団訴訟の支援など、被爆地からの運動の中心的役割を担い続けた。

 ケロイドや肝機能障害に加え、慢性ぜんそくが悪化し2003年、長崎市内から雲仙市のケアハウスに転居。第一線から退き、ベッドで過ごす状態だった。

 05年には米国の歴史学者によってノーベル平和賞候補に推薦。10年度長崎新聞文化章を受章した。


Posted by あづま at 17:47│Comments(0)
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